2008年05月07日
山城で男と女をおもう
さて、先日このブログで、そして今日は番組でもご紹介&ブログにもアップしたように
山城としていま注目の「玄蕃尾城」(げんばおじょう)をサイクリング&ウォーキングで訪ねてきました。
(詳細は「キタマチ交差点」番組ブログを見てね)
聞きしにまさる状態の良さで、地元の方々による整備活動には頭が下がります。
歴史背景や、城としての希少価値もさることながら、
このお城を訪ねたかったのには、実はもうひとつ理由がありました。
それは、私が滋賀へ来てからお世話になった人に関係があります。
その方は、昔から城が好きで、息子さんがまだ小さい頃から一緒に滋賀や近県の城をめぐり、
自分の眼といろいろな資料をもとに、城研究をされていました。
毎年いただく年賀状は、必ず息子さんと一緒に描いた各地のお城の鳥瞰図。
青年の頃に病気になられてから外でのお仕事はせず、
お城の研究を同人誌のようなものに投稿したり、請われたらガイドのようなことをしておられました。
それが生きがいのひとつでいらしたのではないかとも思います。
その方が、ずいぶん前に熱心に調べていたのがこの玄蕃尾城だったんです。
まだ私が滋賀へ来る前のことで、
その後、公の機関も立ち上がってこのお城の整備にとりかかったと聞いています。
専門機関に属するわけでもない素人研究は、日のあたる場所で評価をされたとはいえません。
田舎の長男だったけど、その田畑を捨ててまちへ出てきて、お仕事せずにお金にもあまりならない
研究に没頭していた彼のことは、ふつう世間一般の眼では、あまりよくは思われなかったでしょう。
でも奥様、そしてご家族はどこまでもあたたかく支えていらっしゃいました。
ご本人にお会いすると、いつも少年のように瞳を輝かせながらお城への思いを語っていたのがしのばれます。
病に臥せったあとも、いつかお城に関する本を出したいという夢を描いて
病院の枕元にはかならず、お城に関する資料をもってこさせていたそうです。
その方も残念ながら昨年、天国に召されました。
いまも私の手元には、玄蕃尾城を想像で復元させた図の描かれた年賀状が残っています。
堀と土塁に囲まれた山城にたったとき、ふと思い出したのは
今のこのきれいな城址を見たら、その方はなんて言うだろうなぁ。
うむ、きれいに整備されとるな、と褒めるかな。
それとも、違う、ここはもう少しこういう形だったはず、と言うのでしょうか。
それから、なんとなく遠い戦国時代にも想いを馳せてみました。
戦の準備に明け暮れるなか、家臣たちはどんな思いでこの湖北の山城や砦で過ごしていたのかな。
残してきた家族のことをおもうことはあったのだろうか。
秀吉の策略、さらには信じていたはずの武将たちにも寝返られて、
柴田勝家は、どんな想いでこの玄蕃尾城をあとにしたの?
そしてお市の方は・・・
歴史を動かしてきたのは男の野望とロマンでも、影にはつねに女あり。
・・・ドラマの見過ぎ?じゃないよなぁ、私そんなに見ないもの(笑)
山城としていま注目の「玄蕃尾城」(げんばおじょう)をサイクリング&ウォーキングで訪ねてきました。
(詳細は「キタマチ交差点」番組ブログを見てね)
聞きしにまさる状態の良さで、地元の方々による整備活動には頭が下がります。
歴史背景や、城としての希少価値もさることながら、
このお城を訪ねたかったのには、実はもうひとつ理由がありました。
それは、私が滋賀へ来てからお世話になった人に関係があります。
その方は、昔から城が好きで、息子さんがまだ小さい頃から一緒に滋賀や近県の城をめぐり、
自分の眼といろいろな資料をもとに、城研究をされていました。
毎年いただく年賀状は、必ず息子さんと一緒に描いた各地のお城の鳥瞰図。
青年の頃に病気になられてから外でのお仕事はせず、
お城の研究を同人誌のようなものに投稿したり、請われたらガイドのようなことをしておられました。
それが生きがいのひとつでいらしたのではないかとも思います。
その方が、ずいぶん前に熱心に調べていたのがこの玄蕃尾城だったんです。
まだ私が滋賀へ来る前のことで、
その後、公の機関も立ち上がってこのお城の整備にとりかかったと聞いています。
専門機関に属するわけでもない素人研究は、日のあたる場所で評価をされたとはいえません。
田舎の長男だったけど、その田畑を捨ててまちへ出てきて、お仕事せずにお金にもあまりならない
研究に没頭していた彼のことは、ふつう世間一般の眼では、あまりよくは思われなかったでしょう。
でも奥様、そしてご家族はどこまでもあたたかく支えていらっしゃいました。
ご本人にお会いすると、いつも少年のように瞳を輝かせながらお城への思いを語っていたのがしのばれます。
病に臥せったあとも、いつかお城に関する本を出したいという夢を描いて
病院の枕元にはかならず、お城に関する資料をもってこさせていたそうです。
その方も残念ながら昨年、天国に召されました。
いまも私の手元には、玄蕃尾城を想像で復元させた図の描かれた年賀状が残っています。
堀と土塁に囲まれた山城にたったとき、ふと思い出したのは
今のこのきれいな城址を見たら、その方はなんて言うだろうなぁ。
うむ、きれいに整備されとるな、と褒めるかな。
それとも、違う、ここはもう少しこういう形だったはず、と言うのでしょうか。
それから、なんとなく遠い戦国時代にも想いを馳せてみました。
戦の準備に明け暮れるなか、家臣たちはどんな思いでこの湖北の山城や砦で過ごしていたのかな。
残してきた家族のことをおもうことはあったのだろうか。
秀吉の策略、さらには信じていたはずの武将たちにも寝返られて、
柴田勝家は、どんな想いでこの玄蕃尾城をあとにしたの?
そしてお市の方は・・・
歴史を動かしてきたのは男の野望とロマンでも、影にはつねに女あり。
・・・ドラマの見過ぎ?じゃないよなぁ、私そんなに見ないもの(笑)
Posted by ケイミー at 22:46│Comments(4)
│自転車と鉄道のプチ旅
この記事へのコメント
サイクリング、遠路はるばるお疲れ様でした。この界隈は本当に史跡が多いですね。木之本の黒田地区と合戦場は目と鼻の先、小谷・長浜と正に歴史の交差点だったというのを実感させられます。
越前の北ノ庄も本当にこんな所にあったのかというくらいに住宅街の中にひっそりと遺跡があります。
歴史の表舞台には出ない人々の活躍や下地があって成り立つという事が沢山ある・・・。そう思わずにはいられません。
生きている間に長浜城が見たいという夢は叶った。出来れば安土の城も見たいというのが夢の一つでもあります。
越前の北ノ庄も本当にこんな所にあったのかというくらいに住宅街の中にひっそりと遺跡があります。
歴史の表舞台には出ない人々の活躍や下地があって成り立つという事が沢山ある・・・。そう思わずにはいられません。
生きている間に長浜城が見たいという夢は叶った。出来れば安土の城も見たいというのが夢の一つでもあります。
Posted by wm2011oslo at 2008年05月08日 06:27
wm2011osloさん
ありがとうございます。滋賀とくに湖北には史跡が多いんだと、今回改めて実感、ここに住む縁(えにし)をありがたく思います。そんなところも少しずつめぐっていってみたい気がしてきました。安土の城は、見たいような見たくないような。。表と裏、光と影、そうかもしれないですね。
ありがとうございます。滋賀とくに湖北には史跡が多いんだと、今回改めて実感、ここに住む縁(えにし)をありがたく思います。そんなところも少しずつめぐっていってみたい気がしてきました。安土の城は、見たいような見たくないような。。表と裏、光と影、そうかもしれないですね。
Posted by ケイミー at 2008年05月08日 09:04
ケイミーさん、コンニチハ。
歴史はロマンですね。そこでたかだか400年ほど前にいろんなことがあったんだと思うと、なんか肌が毛羽立ちます。そう、ここにあの有名な織田信長や豊臣秀吉がいたなんて、空想力が広がります。
歴史はロマンですね。そこでたかだか400年ほど前にいろんなことがあったんだと思うと、なんか肌が毛羽立ちます。そう、ここにあの有名な織田信長や豊臣秀吉がいたなんて、空想力が広がります。
Posted by 花ハウス at 2008年05月08日 13:08
花ハウスさん
ほんと、歴史は筋書きのないドラマ、その通りだなぁと思います!あと、よく歴史に「もしも」は禁物といわれますけど、もしあのとき雪が降らなかったらとか、もしあのとき、とか考え出すと日本史も世界史もガラッと変わっていたのかもしれませんねー
ほんと、歴史は筋書きのないドラマ、その通りだなぁと思います!あと、よく歴史に「もしも」は禁物といわれますけど、もしあのとき雪が降らなかったらとか、もしあのとき、とか考え出すと日本史も世界史もガラッと変わっていたのかもしれませんねー
Posted by ケイミー at 2008年05月08日 21:24
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